研究ができない人間だわね

頭がつくづく研究に向いてないなと。あっちそっち興味が飛ぶので。

 

いい大人なんだから、自分で始めて自分で終わらせるプロジェクトをできるようになりましょうね、、

自分が苦手なことのひとつにカウントしとく。卒論つらいよー。

 

卒論終わったら年内にやることを書き連ねとこう。

・鬼滅の映画2回目みにいく

・呪術廻戦の漫画借りる

・旅日記のnote再開する、ZINEつくる準備(卒論②)

・美容室行く

・歯医者行く

・年賀状書く

・友達に会う

・今年お世話になったところにお礼文

卒論と戦うナマケモノ、家脱出失敗

ストーブのきいた部屋で卒論と戦っている。

 

大きな世界を持っていると錯覚するのはなんか嫌だなと思って、SNSのアカウントを消した。

 

自分が本当に持っているものがなんなのかはっきりしておきたい。

有事のときに本当に頼れるものや頼ってくれるものは、自分からアクセスできる範囲にしかない。ならば不安定な縁を繋ぎとめておくより、現実的に自分の能力の範囲で手の届くものたちを、大事にしたほうがしっくりくるなと。

コミュニケーションのスタミナが生来少ない自分のような人間はそうしたほうがいいなと思った。

またどうせ再開するのだけど、今はそういう気分。

 

あと、どんなにありきたりで、既に答えが用意されているようなものであっても、自分の持つ問いから逃げてはだめだと思った。

 

また雪が降った。庭がきれい。寒くて家から出られない。

男になりたいし発展は嫌い

男になりたい。

男女が平等になれという意味は含まない。

「女の子なのにすごいね」の、女の子なのに、という枕詞を聞き飽きた。もしくはそういった空気。夜中に外に出ることを過剰に心配されたくないし、物事を動かす側になってみたいし、群れず淡々と居ることに何も文句をつけられたくない。

意志の弱い自分であるため、これらの声が内在化して、自分でもそうなんじゃないかと思わされる。動きたいように動くと自分に怒られる、この呪いは一生続く。

 

だからといって、社会の側に変わってくれ、女性にも男性同様の自由を認めてくれという主張はあんまりない。女ってやりにくいなあと思って生きている自分は社会からすれば外れ者でしかない、という考えで過ごしている気がする。

 

そういう意味で私はたぶんフェミニストではない。むしろ差別を助長する敵だろう。男女が平等になれなんて思っていない。

人間という動物の生態上、男女の役割が異なっているほうが自然に思えるし、つい最近までそうだった。

もちろん男女で役割のまったく同じの動物や女側が一般的な考え方で言う男の役割を担っている動物はごまんといる。しかしそれは進化の過程で徐々にそうなっただけだ。それを人間は大きな環境の変化や(現状女性のほうが弱い)肉体の進化なしに、外部の装置を改変することで平等にしようとするのってどうなんだ。

そうやって自然の外側にあることをいじることで人間は繁栄してきたのはわかっているし、私も延長線上で生きている限りそこにあやかってきたのは否定しようがないのだけど、私腹を肥やしてきたせいで何世代か後の私たちの子孫は地獄のような地球に生きなきゃならないんじゃないのか。もう少し暴走する欲望を止められなかったのか。狂ってるのは永遠の発展を前提とする社会の仕組みなんじゃないのか。全員の自由を拡張すれば暴走するのは当たり前なんじゃないか。

地球の限界について思いを馳せることのできる頭のいい、かつちょっとおかしいくらいに感受性の豊かな人なんて、ほんの一握りだ。いま焦ってSDGsをとなえ活動している人たちは正しいと思う、思うけど、力が圧倒的に足りない。まだ今生きている人間は肌で危機を感じていない。五感(あるいは第六感)で危機を感じないと動物は動けない。私も思想的には動きたいのに動き方が分からない。これは言い訳なのかしら。

 

主張をするにはわたしは全く頭が悪い。本も読んでいないような人間、結局は旨い汁を啜っているような人間に言えることなんてないと思える。それが分かってしまうから表沙汰に何も批判表現できないんだ。性格のせいなのか世代のせいなのか。私が村上慧に惹かれたのはそのせいだ。

中学生のとき太田光の文明の子を読んで、人間は滅んでしまうのが一番いいんだって考えた。あのいかにも中学生が考えそうな滑稽な、非生産的な思想を、私は今も正しいとどこかで思っている。

頭ではそれでも自分の足元を見て生きていかなきゃって思ってるし、大切な人が笑顔でいられることが幸せだって分かっている。でも、私個人の幸せと社会の幸福は別のものとしてそこにあり、私が人間という社会的な動物である限り、社会の幸福を損ねかねない行為に対して幸せを感じる自分を許せない。

問題を解決したときに感じる虚無感。私が何かを解決したところで、これ以上繁栄してほしくない人類の発展を助長したに過ぎない。なんだかもうよくわからない。守りたいものがはっきりしないと確信がもてない。

 

というでっかすぎる問題を語るにも、女だとなんとなく締まりが悪いのも本当に面倒くさい。これは自分の努力とか性格の問題もある。言ってるだけだから格好がつかないのだ。

とはいえ語りたいわけではないんだけど。そんなことより目の前の人や美しいものを愛でたいのだけど。いろんな矛盾。

引きこもり好きつれづれ

不要不急の外出を控えよ、と引きこもる言い訳が出来たのでこれからも引きこもっていきます。

 

 

ずっと机に向かってると、1日8時間余裕で勉強していた受験のときを思い出す。

あのときリピートで聞いてたなあという曲とか。すろぉもぉしょんが好きだったのをふと思い出した。


ピノキオピー - すろぉもぉしょん feat. 初音ミク / SLoWMoTIoN

 

チャットモンチーは聞き流すのにちょうどよかった。年季入ったファンだったからメロディにいちいち引っかからなくて済んだ。

星野源はひとりの登下校用。歌詞をちゃんと聞きたかったから。

とか。あの頃のYouTubeはまだあまり広告がなくて歌を探しやすかった。今は気が散ってしまうから自動再生にできない。

 

 

やることどうにか終わらせて、まだまだ引きこもってなんか作りたいな。北海道で会える人にも会っておきたいな。一人暮らしはどんな家にしようかも想像しつつ。

来年もきっと初日の出は見られないだろうな。ひとりは寂しい。あとはこの冬に、どうにか、コオリガモの声を聞きたい。道東の海へ。

 

卒論終わったらまずDELTARUNEやろう。

現代の虚無感にむきあう

21世紀美術館にふらっと寄ったときに、村上慧という美術家の展示に出会った。

 

移住を生活する。

目の前で起こるさまざまなことに対する思考の反応のしかた、それを整理したいという欲求や、実際に文字にして表してしまうことなど、すごくすごく共感してしまった。実際に自分の時間をそう生きて、こうして私たちの眼前にあらわしてくれることを感謝した。

資本主義のうさんくささへの主張は、きっと若い世代の多くが根っこの部分で考えていて、でも社会のスタンダードがそうじゃないからと上手く表現できないことを、はっきりと言葉にしてくれたようだと感じた。そうだよな、やっぱりこの世はおかしいよな。

 

そして、批判したからといって何かをした気になるなという言葉、他人にさした指が自分にさされている複雑さについて、なんてままならない世界だろうと思う。うかつに人を批判できないのは、自分もその破壊に携わっているからだ。

 

似たような(と言っていいのかわからないけど)感覚を持っているこの人が、こうやって際限なく答えのない問いを考えてくれている―それだけで私の脳みそのメモリを少し空けることができる。きっと自分が考えるよりも精度高く、現実の感覚をもって思考を展開してくれる。

では私はどうやって社会と向き合おうか。

 

本も買った。

家をせおって歩いた

家をせおって歩いた

  • 作者:村上慧
  • 発売日: 2017/04/17
  • メディア: 単行本
 

 

Gezanも聴いている。

DNA

DNA

 

記憶の自分を呪わない

飛行機での帰り際に、ふとかすめた考えに固まってしまった。

自分の過去を呪わずに生きていける可能性について。

 

少し前みたいにわざわざ取り出して眺めまわすことは無くなったけれど、囚われているものがある。

自嘲が他人からすれば鬱陶しいのももうこの年になれば分かっているから、表には出さないけれど、自分のことを汚い人間だと思っているのは変わらない。

救われたいという願望だけではここから抜け出せないから、けっこうあがいてきたのだが、これ以上こじらせることがなくなっただけで、根本は変わらないみたいだった。

 

ただ、結婚式という美しいものを見た影響なのか、そういう自他の汚らしさを忘れて生きていく可能性に気がついた。

自分のことばかり考えて生きてきた自分のことは許せないし、信用できない。でも未来においても信用できない自分を証明するために行動する必要はない。

根本は変わらなくとも、他人との関係性は変わっていく。いつか素直な思いを受け止めてくれる人がいるといいし、もういるし。

いつか受けた理不尽に対して、不甲斐なかった過去の自分自身に対して、いつも怒っている。でも、そんな歪さを忘れて無責任に他人を思っても誰にも怒られない。自分が精神的に得をするかという損得勘定を考えずに、一方的に与えたり与えられたりしてもなんの支障もない。

 

私はずっと自分のことしか考えていなかった。自分がいかに潔癖であるかとか、努力しているように見えるかとか、他人に負の感情を向けられないか、いかに立派に見えるか、その達成のためにはいろんな情やさしのべられた手なんかを切り捨ててきたと思う。独りになってしかるべき行動だった。今も何も考えないと習慣が残っているのが悲しい。

寄り添われたら逃げたくなる、近づかれたら逃げたくなるのは、そんな汚い自分を見られたくないからだ。 

 

色んな人を見た。真っ先に他人のことを考えて手を差し伸べてしまう人。とにかく人を楽しませようとする人。周りを穏やかに慮る人。みんな形はそれぞれだったけど、一様に輝いていた。

ずっとずっと他人のことを考えるふりをして、自分のことしか考えられなかったのが情けない。もう自分は最低限強くなったんだから、わざわざ守る必要はないはずだ。そのぶんを他人に使えないだろうか。

 

 

自分の中にきっと一生残り続ける罪は、そのまま否定せずとどめておくほかない。消すことはままならなかった。そのうえで私はあえて贖罪ではなくて、変化を選んでいきたい。

大きなことを達成しなくてもいい。ただ色んな人と手を取り合って生きていきたい。どんなに気恥ずかしくとも時間がかかっても、これまで出会った人やこれから出会う人に、思いが正しく伝わるようになればいいと思うし、そのための努力は無駄ではない。