野鳥がアイデンティティと思ってた

去年の春くらいの文章が出てきた。若いなと思う

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毎度だが、この文は全て慰みである。

 

小学校のころから野鳥が本当に好きだった。

高校2年生のとき、30歳の兄に「もう決まってていいね」と、何か意図を持った声色で言われたのを覚えている。

「もう決まってて」とは、将来熱を捧げるもののこと。

 

高校2年生のとき、貯めていたお年玉を双眼鏡と望遠鏡と三脚とカメラと図鑑にすべて使ってしまった。

見たことない野鳥を見て、ライフリスト(=見たことのある鳥の種数)を増やすことに奮闘していた。

いつか現れる識別の難しい鳥のために、羽根の部位の名前も覚えた。押さえるべき特徴も覚えようとした。登下校中は野鳥の鳴き声を流していた。

でも、あのとき私は、純粋に野鳥が好きだったのだろうか。たとえばTwitterに仲良しの人がいなくなっても続けていただろうか?答えは否と思う。私はただただ新たな価値観を吸収することが楽しかった、そして女子高校生で北海道であればちやほやされる世界だったのだ。それだけだ。

美しく珍しい鳥を見て本当にうれしかったことももちろんあるけれど、5割は承認欲求、そんなところではないか。

 

大学に入って野鳥サークルに入った時期、私はあまり正常な精神状態じゃなかった。それを「高校時代にあれこれ手を出し過ぎたエネルギー不足」と結論づけて、だましだまし学校へ通った。少し興味があったアメフト部のマネージャーも諦めた(これはファインプレーだった)。そうして野鳥だけに注力する環境を手に入れたのに、コミュニケーション下手であるサークルメンバーと会話するには、自分の許容量が足りなかった。

彼らといることで、「私はダメになる」と思ったのだ。鳥を見ることをやめた。大学1年生のときだ。

気まずかったのだ。私もまたコミュ障だった。相手がどう思っているのかがわからないと不安で仕方がないのだ。

 

私は必死に普通の人になろうとした。居酒屋で働けばカースト上位の人と知り合えると考えて、ノリについていこうと頑張った。留学に行けば念願の国際交流ができると思って、学部のプログラムで留学をした。でもすべてつづかなかった。自分はそもそも社交界のコミュニケーションで息切れするタイプの人間だった。

まともな人間であろうとする努力をしてきたが、そんな才能はないのであった。ここまで粘ってがんばったのだ、それでもだめだった、諦めるしかないだろう。

 

自分に求める理想値が高すぎる。自分にかけている呪いが多すぎるのだ。

頭が良くなければいけない。痩せていなければいけない。弱い者の味方であらねばならない。人の心の機敏を理解しなければならない。お金は中の上稼げていなければならない。やりたいことをやらなければならない。人に自分の人生を語れなくてはならない。親を泣かせてはいけない。人と喧嘩できるくらい強くならねばならない。優しさをただ相手の味方をすることだけと思ってはいけない。その場のノリを配慮して行動しなくてはいけない。品が良くなくてはいけない。自分の好きなことを貫いていなくてはいけない。ストイックに前だけ向いていなくてはいけない。料理ができなくてはいけない。時間管理を完璧にしなくてはいけない。勉強ができなくてはいけない。本を死ぬほど読まなくてはいけない。休みの日こそ自分を鍛えなくてはいけない。映画を観て教養を身につけなくてはいけない。服は大人っぽく上質なものを着なくてはいけない。心を病んではいけない。強い者に屈してはいけない。自分の意見を持っていなくてはいけない。自分の弱さも受け入れなくてはいけない。自分のことをよく知っていなくてはいけない。オタク文化にも明るくなくてはいけない。男に媚びてはいけない。自分なんかが誰かに甘えて受け入れられるはずがない。友達を粗末にしてはいけない。キャリアウーマンにならなくてはいけない。仕事も子育ても邁進しなくてはいけない。なんだかんだ結婚しなくてはいけない。親に仕送りしなくてはいけない。目の前の人に寄り添える人間でなくてはいけない。

 

こんな人の欠点を洗いざらいしたような考え方のまま子どもなんて育てたくないな。結婚もしたくない。

今変わらないといけなくないか?

 

私は、木造で庭付きの家に住む。猫を飼う。本をたくさん所蔵する。近所の子がときどき本を借りに来るような、おばあちゃんになる。

年老いても、人に対してきちんと敬意をもって関われるような夫婦になる。

それだけだ。そっちのほうが、もっとシンプルじゃないのか?

そうだ。勝負は小さい頃から始まっていたのだ。

 

 

 

 

 

それよか私が生き生きしていたことを。ドライブ。動画づくり。新しいコミュニティに飛び込むことそれ自体。ドラクエとアンダーテール。

人に向き合うよりも、物を通して人を知ることが好きだった。何かをガキ大将的に作り上げること。たとえばリコーダーやステージ発表や毎日のノート書き。

思い通りにならないことが嫌いだった。ディベートで何も言えなかったとき。

あの頃みたいな単純さには戻れないけど、大人はみんな大きな子どもってオードリーヘップバーンが言うように、原点はあそこにあるのだ。とにかく醜い女だったのだ。そんな自分が今でも大嫌いだ。

 

 

 

大学で一番楽しかった経験は、結局、なんだったろうか。東京の友人の家に泊まりに行った日々のことだろうか。

 

すべての意思決定において、わたしはコスパを考えている。

 

 

いつも押し込めているけれど、後悔してることは山ほどある。

野鳥を貫いていれば。純粋に野鳥が好きだったら。学芸員のなり方を調べて、門戸の狭さを痛感して、すぐに放り出す人間じゃなかったら。

もしくは、普通の女子高生ライフを楽しもうと邁進していたら。双眼鏡と望遠鏡と三脚とカメラと図鑑にかけたお金を服や化粧に、鳥友達とつながるTwitterや遠征の時間を、もっと真剣に自分を磨くことや友達と楽しい思い出を作ることに使えていたら。

 

私はカースト上位になるために、テニス部に入り、学校祭を楽しみ、どうにか馴染む努力をしてたけど、

実はテニスが大嫌いで、学校祭は変な方向に全力で極めようとし、空気が読めずに泣いて、居場所を求めひとりで野鳥を観察しに行っていた。

自分が仲間外れではないと思えるのは学校祭の時間だった。役割があって、自分はそこそこ何かを取りまとめるのが得意だったからだ。

でも結局は、それが楽しかったからではなく、相手が喜んでくれるからだった、ここには愛と自分への防御が含まれる。だってここで失敗したら自分には後がない。みんなの上に立つことでしかコミュニケーションの方法がわからない。だから、誰とも繋がれないのなら私は人柱になってもいいと思っていた。面倒役だって思っていなかった。仲良くなる方法がそれしかわからなかった。

 

本質を変えるのは本当に難しい。ずっとずっと人の上を目指して生きてきた。人が嫌がること、ニッチなマーケットかつ自分が楽しいと思えそうなことにはできるだけ飛び込んだ。

その生き方で幸せになれないのは知っている。

私は変われるのだろうか。

 

 

好きなものを貫くことを覚えていたら、今頃は大学院で野鳥研究をしていただろうか。

好きなものを尊重することを覚えていたら、野鳥のサークルでもっと仲良くやれていただろうか。

 

 

 

大学生のうちに、やりたいことはたくさんある。

TEDイベントの運営や、いい卒論を書くことや、デザイナーとして仕事を受注することや、ZINEを作って売ることや、痩せること、芸術祭のお手伝い、

あああ私は何かをつくりたい。つくったものが機能することが大好きだ。

 

でも、否定ばかりしているうちに、好きな気持ちでさえ信じられなくなるのです。こんな思いは、もうしたくない。

聖人になることなんかよりも

人や物事や世間への不満を隠すことなく表出できるようになってきたのは成長だ。しかし「真意はどうあれ悪口や愚痴や弱音は言ってはいけない」という価値観をアップデートできていないので、不甲斐なさだけが募っていっている。

 

赤子には快不快感情しかなくて、成長するにつれて感情の種類が分岐していく。感情そのものの種類が増えていくというよりかは、快不快を言語化することで、感情を自覚しやすくし、共有するなり発散するなりして解決にもっていくことができるようになっていく。感情を適切に表出することは能力である。

要するに不甲斐なさに直面した時に泣くことしかできない半端者は赤子同然なのだと言いたいのだ。己に言っている。

 

それに気がついたのがつい最近、やっと自分が何を感じているのかを表に出せるようになってきて、呼吸がしやすくなったのと同時に、今度は自分の表出したものの意地の悪さに悩んでいる。

なぜ昔にややこしい価値観を持ったのかといえば、誰にも文句をつけられない聖人になりたかったからだった。理不尽な出来事にも怒らない。どんな相手にでも手を差し伸べる。人を励ます力をもっている。頼りになる。人をかばう。人格者になるのが夢だった。あるいは今も夢である。

だが真意は本当になりたい姿にあったのか。違う、真に正しくあれば皆から一目置かれるはずという思い。結局は特別扱いされたかったのだ。自分の知らないところで自分の話が出ることを夢見るような、俗まみれ。自分がどうすれば愛されるかという根源的な問いの答えに、いい子であること、が何よりも先に来てしまった、おつむの弱い人間なだけなのだ。

自分の言動に責任を持つことも学習せずに、のうのうと暮らしてきてしまった。

 

あからさまに心配されたり気を配られたりかわいそうと言われると、自分でもどうかと思うくらい動揺してしまう。頼むから同情しないで。共感しないで。私は誰からも理解されないようなややこしい人間になりたいのだ。そのややこしさを面白がってくれる人にしか心を開きたくないのだ。頼むから簡単に評価しないで。

そういう、目の前に差し出されるわかりやすい愛情にも目を塞ぐから、いつまでも同じところを周っているというのに。

 

誰かの特別になりたい。その「誰か」に見境が無かったあのときは若かった。あのとき、なんて昔のことみたいに語っていいんだろうか。自分はきっと何も変われない。

何かに不満を持ってしまう、そういう人間的な弱さを受け入れて、でも笑って生きていくという種類の強さが欲しい。聖人になることなんかよりも。

夜中のメモ

自分への諦めやどうしようもなさ、社会に期待しない根本思想を外に出してしまうと、自分が傷つくってことがわかった。本音の意見を本音が言える相手に言うのがいちばん辛いってこともあるのだ。嫌な奴。信用できる相手に言ったことほど自分にとって本当になってしまう。

本心からの諦めをそれでも包みこんで、前を向く方法を探す。

 

 

この先10年何に振ろうか。どのセンスがほしいか。

ミーハーは得する

鬼滅にハマって毎日が楽しいんだけど、ミーハー趣味な人が人生楽しそうな理由がわかった。

 

世間に構われるからだ。マーケティングされているからだ。自分から動かなくても世間から働きかけてくれるから、常に何かが起こっている。時間が埋まるのだ。考えなくても済むようになる。

 

 

孤独は余計なことを考えて気を滅入らせるのを助長する。もちろん価値もあるし、なくてはならないものだけど、世間も忘れずに、要はバランスということだった。

研究ができない人間だわね

頭がつくづく研究に向いてないなと。あっちそっち興味が飛ぶので。

 

いい大人なんだから、自分で始めて自分で終わらせるプロジェクトをできるようになりましょうね、、

自分が苦手なことのひとつにカウントしとく。卒論つらいよー。

 

卒論終わったら年内にやることを書き連ねとこう。

・鬼滅の映画2回目みにいく

・呪術廻戦の漫画借りる

・旅日記のnote再開する、ZINEつくる準備(卒論②)

・美容室行く

・歯医者行く

・年賀状書く

・友達に会う

・今年お世話になったところにお礼文

卒論と戦うナマケモノ、家脱出失敗

ストーブのきいた部屋で卒論と戦っている。

 

大きな世界を持っていると錯覚するのはなんか嫌だなと思って、SNSのアカウントを消した。

 

自分が本当に持っているものがなんなのかはっきりしておきたい。

有事のときに本当に頼れるものや頼ってくれるものは、自分からアクセスできる範囲にしかない。ならば不安定な縁を繋ぎとめておくより、現実的に自分の能力の範囲で手の届くものたちを、大事にしたほうがしっくりくるなと。

コミュニケーションのスタミナが生来少ない自分のような人間はそうしたほうがいいなと思った。

またどうせ再開するのだけど、今はそういう気分。

 

あと、どんなにありきたりで、既に答えが用意されているようなものであっても、自分の持つ問いから逃げてはだめだと思った。

 

また雪が降った。庭がきれい。寒くて家から出られない。

男になりたいし発展は嫌い

男になりたい。

男女が平等になれという意味は含まない。

「女の子なのにすごいね」の、女の子なのに、という枕詞を聞き飽きた。もしくはそういった空気。夜中に外に出ることを過剰に心配されたくないし、物事を動かす側になってみたいし、群れず淡々と居ることに何も文句をつけられたくない。

意志の弱い自分であるため、これらの声が内在化して、自分でもそうなんじゃないかと思わされる。動きたいように動くと自分に怒られる、この呪いは一生続く。

 

だからといって、社会の側に変わってくれ、女性にも男性同様の自由を認めてくれという主張はあんまりない。女ってやりにくいなあと思って生きている自分は社会からすれば外れ者でしかない、という考えで過ごしている気がする。

 

そういう意味で私はたぶんフェミニストではない。むしろ差別を助長する敵だろう。男女が平等になれなんて思っていない。

人間という動物の生態上、男女の役割が異なっているほうが自然に思えるし、つい最近までそうだった。

もちろん男女で役割のまったく同じの動物や女側が一般的な考え方で言う男の役割を担っている動物はごまんといる。しかしそれは進化の過程で徐々にそうなっただけだ。それを人間は大きな環境の変化や(現状女性のほうが弱い)肉体の進化なしに、外部の装置を改変することで平等にしようとするのってどうなんだ。

そうやって自然の外側にあることをいじることで人間は繁栄してきたのはわかっているし、私も延長線上で生きている限りそこにあやかってきたのは否定しようがないのだけど、私腹を肥やしてきたせいで何世代か後の私たちの子孫は地獄のような地球に生きなきゃならないんじゃないのか。もう少し暴走する欲望を止められなかったのか。狂ってるのは永遠の発展を前提とする社会の仕組みなんじゃないのか。全員の自由を拡張すれば暴走するのは当たり前なんじゃないか。

地球の限界について思いを馳せることのできる頭のいい、かつちょっとおかしいくらいに感受性の豊かな人なんて、ほんの一握りだ。いま焦ってSDGsをとなえ活動している人たちは正しいと思う、思うけど、力が圧倒的に足りない。まだ今生きている人間は肌で危機を感じていない。五感(あるいは第六感)で危機を感じないと動物は動けない。私も思想的には動きたいのに動き方が分からない。これは言い訳なのかしら。

 

主張をするにはわたしは全く頭が悪い。本も読んでいないような人間、結局は旨い汁を啜っているような人間に言えることなんてないと思える。それが分かってしまうから表沙汰に何も批判表現できないんだ。性格のせいなのか世代のせいなのか。私が村上慧に惹かれたのはそのせいだ。

中学生のとき太田光の文明の子を読んで、人間は滅んでしまうのが一番いいんだって考えた。あのいかにも中学生が考えそうな滑稽な、非生産的な思想を、私は今も正しいとどこかで思っている。

頭ではそれでも自分の足元を見て生きていかなきゃって思ってるし、大切な人が笑顔でいられることが幸せだって分かっている。でも、私個人の幸せと社会の幸福は別のものとしてそこにあり、私が人間という社会的な動物である限り、社会の幸福を損ねかねない行為に対して幸せを感じる自分を許せない。

問題を解決したときに感じる虚無感。私が何かを解決したところで、これ以上繁栄してほしくない人類の発展を助長したに過ぎない。なんだかもうよくわからない。守りたいものがはっきりしないと確信がもてない。

 

というでっかすぎる問題を語るにも、女だとなんとなく締まりが悪いのも本当に面倒くさい。これは自分の努力とか性格の問題もある。言ってるだけだから格好がつかないのだ。

とはいえ語りたいわけではないんだけど。そんなことより目の前の人や美しいものを愛でたいのだけど。いろんな矛盾。