”強い陽キャ”に憧れた

就活してると、自分のことを振り返る機会がいつもの五億倍くらいになる。そのおかげで、最近封じ込めていたあることを認めざるを得なくなった。

自分が陽キャにはなれないってことだ。

 

笑っちゃうぐらい空回りした努力をしてきた。

中学のとき、所属していたバドミントン部員間の話題は、もっぱら俳優とドラマについてだった。ついていけるように、母の観ているドラマをのぞき見してみるのだけど、内容がぜんぜん頭に入ってこず、気が付いたらNHK小林賢太郎のコントを観ていた。嵐の5人の顔はかろうじて覚えたけど、どうやっても向井理の顔すら覚えられなかったので、めっっっちゃ適当に合わせていた。どんなタレントの話題になっても、目がかっこいいと言っておけば大体いいのだ。もちろんばれた。

 

高校大学もだいたい同じように過ぎた。どうにか周りと話題を合わせたい自分vsどうしても興味をもてない自分、の果てしない戦いである。周りと話が合わなければ、どこにも仲間に入れてもらえないと思っていた。もちろんそんなことはなく、幸運にも同志を見つけていくことはできた。しかし、「主流の遊びについていけないコンプレックス」は、否が応でも溜まっていった。

自分には縁のない社交場なんだろうなーということには薄々気がついていた。でも、心の底では諦めていなかった。カーストを気にしないふりをしながらも、きっとどこかで上の人はこういうものだ、というステレオタイプが消えなかった。と思う。

 

 

しかしこの前、就活で出会ったある大人に言われたことに納得してしまって、この葛藤にひとつの区切りがついた。

私が、ことばだとかデザインだとかに興味があって、博報堂とか電通とかも正直憧れはあるんですよね~と言うと、

「あそこは”強い陽キャ”が行くところだよ」と。

どんなことがあっても意固地になっていた私が、”強い陽キャ”、このワードに妙に納得してしまったのだ。

 

なるほど。

世代世代にふさわしい方法で遊んでこれた人たちがいる。それが私の定義する陽キャである。

かたきで遊びドラマを観てプリクラを撮り体育祭を楽しんできた同世代は、きっといまお酒やスノボで遊んでいる。

よく聞く広告業界の”遊び方”を鑑みる。たぶん(偏見も含めだけど)、ドラマのような交流が繰り広げられている。月9みたいな恋愛、仕事のしかた。そんな世界に憧れる人は、交流の仕方になんの違和感も持っていない人が多そうだ。

 

あ~ぜんっぜんそっち側じゃないわ!!と認めるときがきた。私は強い陽キャではない。気づくのが遅かった!!!

私はどう考えても、かたきで幸せを感じる子どもではなかった。放課後元気な友達がグラウンドに繰り出す同じころ、野鳥を見に友達と公園へ通っていたような子どもである。居酒屋で大人数で騒ぐよりも古本屋でぼーっとしているほうが幸せな人間に育つのは当然のことだった。

それなのに、いつか世間一般の同世代の遊びができるようになる、なんて信じていたのだ。

というか普通の遊びってなんなんだ。大事なのは楽しければいいってことなのに。比べてもなーんの利益もないことだった。

 

そんなわけで、”強い陽キャ”になり損ねたことに、ついに気がついたのだった。

もちろん、知っているのだ。周りを気にしてしまうような弱い人は、結局主流に乗れたほうが楽しく生きていける。なんの疑いもなく気後れもせず遊べる。

知ってる。その場の楽しさを大切にまっすぐ生きてきた人のほうが、気持ちいい人が多いってことも。私が一番仲良しと思っている幼なじみは、ばちぼこに強い側だし。

それなのに、いつの間にか逸れてしまう、この趣向はなんなんだろうな。

 

 

まあ、でも結局は、そんなマイナー趣味の自分しか好きになれる余地がないのである。そのぶん同じ人に出会ったときに感動も大きいものだ、と思う。

けど、人を気にしないで、どこでも身一つでやっていけるような強いひとには、まだ遠いみたい。よわっよわである。