ピュアで何が悪いの

同世代よりも大人と親和性が高いので(たぶん兄と歳が離れてるせい)、出会ったいろーんな年上の人によく就活の相談をしている。

 

その中で、私の価値観を伝えると、よく言われる言葉がある。

素直。ピュア。清濁併せ呑めない。折れないでほしい。

 

バカ正直でいようと決めて生きてきたので、嬉しいことばではあるのだけど、

この方々のニュアンス的には、「そんなに甘くない」という棘が含まれているのが分かる。

こうありたい、という理想像を高く持つことで、現実的にはそうできない自分に苦しむ、ということを言いたいのだと思う。

そういう経験(しかもおそらく壮絶な経験)を何度も潜り抜けてきた人たちの意見なのだ、間違いはないのだと思う。ある壁を越えなくてはならなかったときに、何かを諦めた人なのかもしれない。あるいは周りに折れてしまった人がいたのかもしれない。何に思いを馳せながら私のことをそう評したのかはわからない。

 

資本主義の社会に放り込まれたときに、理想と現実の姿のギャップに疲れ果てるという経験は、些細ではあるが、私にもある。きちんと理念を叶えるためには、まずは泥臭く資金を集めなくてはいけないということも、頭では分かっている。

しかしきっと、感覚でわかっていない。だから夢を見ているって思われるのだろう。

 

 

それでも、私は思うのだ。

ピュアで何が悪いのだろうか。

私が半ば諦めた形で社会人人生を歩んでいくことに、なんの意味があるんだろうか。

 

大人として生きていくうえで、ひとつ目標がある。それは甥と姪にとってかっこいい叔母になることだ。仕事を楽しんで、出会いを楽しんで、暮らしを楽しんで、社会に関わりながら楽しく生きる姿を見せてあげたいのだ。

数値を達成するとか勝つことにどうしても興味を持てない私にとって、理想の姿を追い求めることは唯一の目標たりえる。

 

理想を裏切り続けなくてはならない状況になったとき、私はきっと死にそうになると思う。現に死にそうになったことが何度もある。

だから、いつ状況が変わってしまっても、逃げられるように、そしてすぐ違う場所を見つけられるくらいには、社会的に強くなっていたい。

 

 

 

こんなこと言われた、と母に言ってみたら、

その歳で清濁併せ呑めたほうがすごいよ、とのことだったので、

もう少し世の中に夢を見ていようと思った。

いつかズタズタにされるのならなおさら、せめてそれまではこの世の美しさを信じていたい。若かったねって懐かしみたい。

 

 

 

自分を貫いたうえで、それでもどうしようもない壁にぶつかったとき、どう行動すればいいかは、きっと周りの人や先人が教えてくれる。

それまでたくさんの同志とつながっていたいし、たくさんの知恵を吸収しておきたい。

理想をまっすぐ追い求めたい、と言える環境があることに、まず感謝しつつ。きっとなかなかないからね。