文章を書くというのは、自分の無知を晒す行為だと思っている。
ということを、Twitterで有名なたらればさんの主張に影響されている時点で、すでに。
わたしの感じることは、もう誰かが感じたことばかりだろうし、考えることは誰かの言説を継ぎはぎしたものばかりだろう。そんな自分が、文章を通じて何かの価値を生み出そうなんて、おこがましいのである。
それでも、そんなばかなことをやめられないのは、ただ生み出す行為が喜びだということを知ってしまったからである。
私のいちばんの喜びは、自分だけが知っている、何かの「ありのまま」を知ること。
誰の批評も聞こえない静かな空間で、私だけが享受したようなメッセージを、そっと感じていたいのだ。
そんな場面が訪れたとき、誰にも理解されないなら黙っていればいいのに、どうしても誰かに伝えたくなってしまうのが私である。何かに表現しないと気が済まない。例えば文章で。絵で。図で。とにかく残さないと終わらない。
子どものころのコミュニケーションは成長するに従って、社会に合わせてブラッシュアップされていくものだけれど、子どもじみた「これ見て!」の精神を、私は死ぬまで無くすことができない。きっと。
文章はやめられない。
それは私にとって、あまりにも小さくてありふれた生の中で、唯一自分に許された自由だから、まで書いて小恥ずかしいこと書いてるなと自分で反省した