憧れの大人たちはそこにいる

一生関わり続けたいものに出会うことは幸せだと思っている。

今の関わるコミュニティは私にとってそんな存在である。縁もゆかりもない人間を受け入れてくれただけではなく、温かく仲間に入れてくれたこと、そして楽しい関わり方遊び方を知っていることに、毎回感動させられている。

 

色んな世代が関わっているとはいえ子どもや若者に対する教育の意図はほとんどなく、大人自身が何より楽しんでいる。よそ見せず羨まず自分のやることを分かっている。役割をまっとうし、生を楽しんでいる。

 

三世代教師の家系で育ち、自身も吸い寄せられるように教育学部に来てしまったが、勉強や経験を経て、「教育」にかなりうんざりしていた。
人格が崩壊していながら教鞭をとる身内、勘違いして勝手に期待する大人。その違和感に気づき自分でどうにか試行錯誤して、違う種類の大人に出会うことを経て、「自分には伝えたいことがある」と思ったところにやっと教育の意味が生じるはず。なのに、その疑問すら持たないまま教師になる人間の多いこと。

子どもにとっての幸せに生きる糧を用意してあげるために大人ができることと言えば、大人自身が欺瞞のない生き方を見せてあげること。失敗の苦しみも成功の喜びも挑戦の怖さも、すべて自分の責任で引き受けること。そのはずなのに、私の周りにはそういう人間がいつの間にか少なかった。昔はいい子をしすぎたのかもしれない。

 

薄っぺらさに気がついてから、「こういう生き方をしよう」的なことを大真面目に大っぴらに掲げるグループには、近づくことをやめていた。彼らは自分たちに酔っていて、言葉でそれらしく見せているだけだ。生き方に多様性があるのを、時代性や個々の事情があるのを認めようとせずに、ただ自分たちの救いを求め、正義を振りかざそうとしている。全員が全員そうではないけど、ウソかホントか判断する力はまだ私には育っていない。

私もそういうものに価値観をいい意味で変えられた経験はあるけれど、搾取された感覚が今でも消えない。意味はあったけど、本物じゃなかったと思う。

 

私がここを好きなのは、

自分の生き様を貫く人が多いから。その多様性を認める文化が育っているから。

子どもから年寄りまで各世代に役割があるから。長い時を感じられるから。

 

関わり続けたいものの今の答えはこの場所だ、誰に頼まれたわけでもないから自信を持って言える。

どうやったら今後の人生を絡めていけるのか、大真面目すぎてつまらなかった自分にその資格があるのかは、まだ全然わからない。だけどこれから、馬鹿なこともいいこともいろんな紆余曲折を経験して、その地平に行けるように夢見ている。

憧れの大人たちはそこにいる。