真面目さ3.0

「中にあるものしか表現できない」ことを、じわじわ実感してきた。

 

この前、「あなたはどうしたいの?」と、人生で初めて聞かれた気がした。どんなことを展示したいかを相談していて、こんな案があって、こんな案もあり、でも迷っていると言ったときのこと。
同じ文面のせりふを、たしか就活のときに幾度も聞かされていたし、自分もそれっぽく答えていたはずだった。でも、そのとき聞かれた記憶も答えも一気に吹っ飛んでしまった。そのくらい重みのある問いだった。

 

問うてくれたのは芸術家の方で、つまり、常にそのような問いと向き合ってきた方だった。
少しずつ内容を消化していくと、私の物事の判断軸が「合っているか、合っていないか」だったことに気がつかされた。
そんな基準はこの場には、少なくとも成熟した大人の世界には存在しなかった。どうしたいか、の問いを言い換えるとしたら、「何があなたの中にあるか、どんなことなら愛を持って伝えられるか」なのだと思う。従来の自分の判断軸に基づいて制作したものは、たとえ場にふさわしかったとしても、面白みのないものになっていたはずだ。だって自分の中にはない、つまらぬはりぼてを作り上げることになるから。

 

 

真面目一辺倒を貫いた就職活動を経て、今まで自分の中心に据えてきたこの真面目さにうんざりしてきたところである。自分を何も加工なく伝えることがいいことだと思い込んできた。けど、もし受け取ってもらいたいなら、それなりのやり方があるし、積むべきことも死ぬほどある。深みのある自分になりたいなら、魅せ方をこしらえる前に、自分を忘れるくらいに何かに魅せられなくては。

私が教育に携わりたくないと思う理由も、その分野で自分が表現できるものはないと思うから。教育者の立場になったとたんに、今の自分には欺瞞が生じるから。要は経験不足を恥じている。

 

当たり障りのない選択肢に引き寄せられるのは、もうやめにしたつもりだったけど、どこかでやめられていなかったらしい。それを自覚できてよかった。さようなら今までの真面目さ、そしてこれからは、違う真面目さを持とう。表現ができる自分へ。

先の「あなたはどうしたいか」に、自分の中でうまく答えられたとして、周りには評価されない可能性の方が高い。それでも表現できたことに喜びを感じられたら、忘れかけていた子どもの感覚にちょっとは戻れたことになるはずだ。