鳥がわたしのすべてを繋げている

事実は小説よりも奇なりというが、こんな偶然が偶然を呼ぶ設定じゃ誰も読んでくれないだろう。 

予想だにしなかった縁があり、一生何にも役に立たないと思っていた野鳥趣味が価値を見出されて、すべてを繋げていく不思議。そんな渦中にいます。

 

大好きなものと大好きなものと大好きなものが繋がる。計画なんてなく、まるで旅のように、ある人の言葉が私の行動を変え、また違う人も変え、それによって変わった私がまた周りの言動を変え。

当事者である私はなんだか23歳の私じゃないみたいで、子どもの頃の自分が世の中で遊んでいるみたいに。

 

 

野鳥が好きだったことを、ずっと忘れようとしていた。

社会を戦う上で、まったく無駄な興味と知識だったから。小学生のとき、確かに自分を形作ったこの趣味は、大半の場で邪魔になり、高校のときにかろうじて現実から逃避する手段として生き残っていたくらいだった。

 

なんだかんだ、私はずっと鳥とともにあった。

友達グループと週2で鳥を見に行ったり、野鳥だよりを何十号にもわたって発刊したり、博物館で札幌の野鳥について展示したり、校内で野鳥クラブをつくったり。美術の時間は鳥の作品ばかり作ったり。SNSで夜な夜な野鳥仲間と遊んだり、たまたま知り合った人たちと車で遠くまで行ったり、貯めてたお年玉を図鑑や双眼鏡や望遠鏡やカメラにつぎこんだり、女子高生ひとりで吹雪の港で海鳥を見たり、探鳥会や勉強会に行ったり。

これら行動の全てを、私は心理学的視点、自己批判の視点から「誰かに面白がられることが気持ちよかったから」と軽んじていた。私は結局、大学の野鳥の集まりを脱落してしまったし、それが決定打となって、鳥を見に行こうと思わなくなった。目を背けていた過去だった。生物学からも農学からも逃げてしまった人間に語る資格はないと思っていた。

 

誰かの評価を気にしていたからもあるけど、それがすべてだと思わなくてよかった。ただただ、鳥が、鳥を見つめる時間が大好きだったんだと思う。

 

 

私が野鳥のことを知っている、と公に知らされた次の日、ある子たちが私に「森に鳥を見に行こう」と言った。興味を持ってくれたことが嬉しくて、双眼鏡と図鑑を貸して、一緒にぐるっと森を回る。「○○を見つけた!」と自慢げに言う、「さっき白い鳥が飛んでいったの、なんていう鳥?」と言うこの子たちに、どれだけ救われたか。

 

色んな人がこの場への思いを聞かせてくれて、それを叶えるために私にできることがあるかもしれないなんて思ったりもする。純粋な興味が誰かを支えるかもしれない不思議。

ある廃校の、鳥との物語を編んでいくことで、私の人生に何かが起こると確信したから、もう逃げられなかった。

 

 

私にできることは少ないだろうし、ある程度下地をつくることまではやろうくらいに思っていたのだけど、「この一年間で完成させたほうがいい」と、初対面の方にふと言われたことが妙に腑に落ちた。そうか今年昇華しきらなきゃと思わされた。

小さくても歪でも、私にできる範囲のこと、表現したいことは、やりきりたい。この夏は大事な夏になるとおもう。