「意図がうるさい」と感じる時がある。
自然に出た声ではなく、なんらかの意図をもって話しかけられるとき。それは直接だけではなく、例えば道端の看板や、コマーシャル、文字や音声とともに飛び込むあれこれ。相手への愛情を被った操作。
相手に「ほしい」「したい」の感情を喚起させれば勝ちなのだろうが、喚起させられる側は気力を使うのだ。選択過多。
たぶん一部の人間しか、情報からの自衛の術を真剣に身につけなければならないことを知らない。知っている人間の多くは器の小さいほうの人間であり、この世間の流行に適応できなかった側が持つノウハウは今は彼らしか知らない。
今は耐えられる側にいる人も、人ひとりそれぞれが発信する時代が来てしまったら、世の中にあふれるあまりの情報量に、徐々に辟易していくのではないのか。
その情報選択も、ゆくゆくは機械がするようになるのだろう?いや、今もしているだろ。記録の力が席巻し、選び取る力さえ生体の外部に存在する。でも能力を外注して何が豊かなの?
過程も人の幸せであるはず。
人間という動物として獲得していく単純な能力を、私はひとつひとつ着実にできるようになっていきたい。資本主義の網の目をどうにかかいくぐりながら、過剰に発展していく社会とはちゃっかり違うルートを辿りながら生きたい。
誰かが答えを持っていることに慣れ過ぎてしまって、答えを掴む過程で飽きてしまう自分は絶望的に現代人だなと思うが、もう一度自分なりの「生きるとは何か」の答えを探究したい(心に響いたしいたけ占いの今月のことば)。
ひとつひとつの科学技術の恩恵(たとえばレスキューとか電子端末とか、死亡率を大幅に下げたあれこれとか、しいたけ占いがいつでも読めることとか)は知らぬ間に受けてしまう。矛盾だ。文明を否定しながら文明の恩恵にあずかるのはいかがかという批判に立ち向かう術はない。
そういう矛盾を抱えてしまうことも承知で、自分が簡単に世間に迎合して幸せぶることに耐えられない。
青い、青いでしょう。現実を突きつけられるようになったら、ジェットコースターのように、目の前の資本主義と入り組んだ政治に振り回される日が来るでしょう。でもきっと何度でもこの考えに戻ってくる。ずっと変わらぬ価値観に。
貢献先がどんどんぼんやりしていく社会に働きかけ、生きていかねばならないのである。そんな大変な「生きる」だが、モルヒネの注射のごとく苦しみや楽しみをぼやかして適当にしていくくらいなら、私が一生をかけて追い求めたい答えは何だろうと、さまよい歩いていきたい。アルケミストのように。
なんだかんだ言えど、自分に一番大事なのは居場所である。守るものができたとき、どうせこの哲学を変えなければならないのだ。リミットは親の介護が発生するまで、兄の有事まで、しっかりした夫ができるまで、子どもができるまで。それまでは迷わせてくれ。文句を言わせてくれ。
まとめる気のない文章である。