この前、あ〜〜〜なるほどなと思ったことがありまして、こちらのツイートなのですが。
青年期までは「キャパシティが大きい=才能がある」ことに評価がつきますが、オトナになると「キャパシティの使いこなしかた」に評価がつく。キャパシティの多寡ではなく、自分の器の大きさを把握してうまく使えているかがオトナの才能。小さくてもヘンなカタチでもちゃんと機能してれば良いんだよ…!
— 小倉ヒラク | Hiraku Ogura (@o_hiraku) 2020年8月19日
「自分はもう成長しない」「できることも増えない」ということを前提とすることで「では限られたキャパをどう使い倒すか?」というオトナ期の自己鍛錬に移行できる。一度自分の限界を受け入れないと「自分を使いこなす」ことができない。つまりオトナとして振る舞えず、くすぶり続ける青年になる。
— 小倉ヒラク | Hiraku Ogura (@o_hiraku) 2020年8月19日
これを見ても「いや、まだまだ」と考える時期を、既に過ぎてしまったようです。喜ばしいのか悲しいのか。
弱さを受容しなさいと言われることがあるが、弱さは弱さなのだから少しずつでも努力して強くしていくべき、少なくとも自分は。
とか思ってたけども、どうやらもうその必要もないみたい。
恥ずかしいところや汚いところも、よい側面とうまくやりくりしていくことを許せそうである。
このことできっと失われるものもある。感覚を忘れたり、不理解になってしまったり。でも膨大なもので溢れ返る世の中で、徐々に自分の選択肢を自分の手で狭めていくのは、悪いことではないとおもう。
今の役割をすっかり終えてしまっても、ただ役割が変わるだけなのだと。
自分の嫌だったところ、この文章が表現してるような「青くさい」「面白くない」も、もうしょうがないなと思う。今更カラッとした人間には変われない。でもそれでいい。青くささを嫌わない人や、それでも一緒に笑える人といればいい。
この容れ物だからこそできることを、その場その場で探していこう。胸の中の釘がひとつ抜けた気分だ。