記憶の自分を呪わない

飛行機での帰り際に、ふとかすめた考えに固まってしまった。

自分の過去を呪わずに生きていける可能性について。

 

少し前みたいにわざわざ取り出して眺めまわすことは無くなったけれど、囚われているものがある。

自嘲が他人からすれば鬱陶しいのももうこの年になれば分かっているから、表には出さないけれど、自分のことを汚い人間だと思っているのは変わらない。

救われたいという願望だけではここから抜け出せないから、けっこうあがいてきたのだが、これ以上こじらせることがなくなっただけで、根本は変わらないみたいだった。

 

ただ、結婚式という美しいものを見た影響なのか、そういう自他の汚らしさを忘れて生きていく可能性に気がついた。

自分のことばかり考えて生きてきた自分のことは許せないし、信用できない。でも未来においても信用できない自分を証明するために行動する必要はない。

根本は変わらなくとも、他人との関係性は変わっていく。いつか素直な思いを受け止めてくれる人がいるといいし、もういるし。

いつか受けた理不尽に対して、不甲斐なかった過去の自分自身に対して、いつも怒っている。でも、そんな歪さを忘れて無責任に他人を思っても誰にも怒られない。自分が精神的に得をするかという損得勘定を考えずに、一方的に与えたり与えられたりしてもなんの支障もない。

 

私はずっと自分のことしか考えていなかった。自分がいかに潔癖であるかとか、努力しているように見えるかとか、他人に負の感情を向けられないか、いかに立派に見えるか、その達成のためにはいろんな情やさしのべられた手なんかを切り捨ててきたと思う。独りになってしかるべき行動だった。今も何も考えないと習慣が残っているのが悲しい。

寄り添われたら逃げたくなる、近づかれたら逃げたくなるのは、そんな汚い自分を見られたくないからだ。 

 

色んな人を見た。真っ先に他人のことを考えて手を差し伸べてしまう人。とにかく人を楽しませようとする人。周りを穏やかに慮る人。みんな形はそれぞれだったけど、一様に輝いていた。

ずっとずっと他人のことを考えるふりをして、自分のことしか考えられなかったのが情けない。もう自分は最低限強くなったんだから、わざわざ守る必要はないはずだ。そのぶんを他人に使えないだろうか。

 

 

自分の中にきっと一生残り続ける罪は、そのまま否定せずとどめておくほかない。消すことはままならなかった。そのうえで私はあえて贖罪ではなくて、変化を選んでいきたい。

大きなことを達成しなくてもいい。ただ色んな人と手を取り合って生きていきたい。どんなに気恥ずかしくとも時間がかかっても、これまで出会った人やこれから出会う人に、思いが正しく伝わるようになればいいと思うし、そのための努力は無駄ではない。