男になりたいし発展は嫌い

男になりたい。

男女が平等になれという意味は含まない。

「女の子なのにすごいね」の、女の子なのに、という枕詞を聞き飽きた。もしくはそういった空気。夜中に外に出ることを過剰に心配されたくないし、物事を動かす側になってみたいし、群れず淡々と居ることに何も文句をつけられたくない。

意志の弱い自分であるため、これらの声が内在化して、自分でもそうなんじゃないかと思わされる。動きたいように動くと自分に怒られる、この呪いは一生続く。

 

だからといって、社会の側に変わってくれ、女性にも男性同様の自由を認めてくれという主張はあんまりない。女ってやりにくいなあと思って生きている自分は社会からすれば外れ者でしかない、という考えで過ごしている気がする。

 

そういう意味で私はたぶんフェミニストではない。むしろ差別を助長する敵だろう。男女が平等になれなんて思っていない。

人間という動物の生態上、男女の役割が異なっているほうが自然に思えるし、つい最近までそうだった。

もちろん男女で役割のまったく同じの動物や女側が一般的な考え方で言う男の役割を担っている動物はごまんといる。しかしそれは進化の過程で徐々にそうなっただけだ。それを人間は大きな環境の変化や(現状女性のほうが弱い)肉体の進化なしに、外部の装置を改変することで平等にしようとするのってどうなんだ。

そうやって自然の外側にあることをいじることで人間は繁栄してきたのはわかっているし、私も延長線上で生きている限りそこにあやかってきたのは否定しようがないのだけど、私腹を肥やしてきたせいで何世代か後の私たちの子孫は地獄のような地球に生きなきゃならないんじゃないのか。もう少し暴走する欲望を止められなかったのか。狂ってるのは永遠の発展を前提とする社会の仕組みなんじゃないのか。全員の自由を拡張すれば暴走するのは当たり前なんじゃないか。

地球の限界について思いを馳せることのできる頭のいい、かつちょっとおかしいくらいに感受性の豊かな人なんて、ほんの一握りだ。いま焦ってSDGsをとなえ活動している人たちは正しいと思う、思うけど、力が圧倒的に足りない。まだ今生きている人間は肌で危機を感じていない。五感(あるいは第六感)で危機を感じないと動物は動けない。私も思想的には動きたいのに動き方が分からない。これは言い訳なのかしら。

 

主張をするにはわたしは全く頭が悪い。本も読んでいないような人間、結局は旨い汁を啜っているような人間に言えることなんてないと思える。それが分かってしまうから表沙汰に何も批判表現できないんだ。性格のせいなのか世代のせいなのか。私が村上慧に惹かれたのはそのせいだ。

中学生のとき太田光の文明の子を読んで、人間は滅んでしまうのが一番いいんだって考えた。あのいかにも中学生が考えそうな滑稽な、非生産的な思想を、私は今も正しいとどこかで思っている。

頭ではそれでも自分の足元を見て生きていかなきゃって思ってるし、大切な人が笑顔でいられることが幸せだって分かっている。でも、私個人の幸せと社会の幸福は別のものとしてそこにあり、私が人間という社会的な動物である限り、社会の幸福を損ねかねない行為に対して幸せを感じる自分を許せない。

問題を解決したときに感じる虚無感。私が何かを解決したところで、これ以上繁栄してほしくない人類の発展を助長したに過ぎない。なんだかもうよくわからない。守りたいものがはっきりしないと確信がもてない。

 

というでっかすぎる問題を語るにも、女だとなんとなく締まりが悪いのも本当に面倒くさい。これは自分の努力とか性格の問題もある。言ってるだけだから格好がつかないのだ。

とはいえ語りたいわけではないんだけど。そんなことより目の前の人や美しいものを愛でたいのだけど。いろんな矛盾。