聖人になることなんかよりも

人や物事や世間への不満を隠すことなく表出できるようになってきたのは成長だ。しかし「真意はどうあれ悪口や愚痴や弱音は言ってはいけない」という価値観をアップデートできていないので、不甲斐なさだけが募っていっている。

 

赤子には快不快感情しかなくて、成長するにつれて感情の種類が分岐していく。感情そのものの種類が増えていくというよりかは、快不快を言語化することで、感情を自覚しやすくし、共有するなり発散するなりして解決にもっていくことができるようになっていく。感情を適切に表出することは能力である。

要するに不甲斐なさに直面した時に泣くことしかできない半端者は赤子同然なのだと言いたいのだ。己に言っている。

 

それに気がついたのがつい最近、やっと自分が何を感じているのかを表に出せるようになってきて、呼吸がしやすくなったのと同時に、今度は自分の表出したものの意地の悪さに悩んでいる。

なぜ昔にややこしい価値観を持ったのかといえば、誰にも文句をつけられない聖人になりたかったからだった。理不尽な出来事にも怒らない。どんな相手にでも手を差し伸べる。人を励ます力をもっている。頼りになる。人をかばう。人格者になるのが夢だった。あるいは今も夢である。

だが真意は本当になりたい姿にあったのか。違う、真に正しくあれば皆から一目置かれるはずという思い。結局は特別扱いされたかったのだ。自分の知らないところで自分の話が出ることを夢見るような、俗まみれ。自分がどうすれば愛されるかという根源的な問いの答えに、いい子であること、が何よりも先に来てしまった、おつむの弱い人間なだけなのだ。

自分の言動に責任を持つことも学習せずに、のうのうと暮らしてきてしまった。

 

あからさまに心配されたり気を配られたりかわいそうと言われると、自分でもどうかと思うくらい動揺してしまう。頼むから同情しないで。共感しないで。私は誰からも理解されないようなややこしい人間になりたいのだ。そのややこしさを面白がってくれる人にしか心を開きたくないのだ。頼むから簡単に評価しないで。

そういう、目の前に差し出されるわかりやすい愛情にも目を塞ぐから、いつまでも同じところを周っているというのに。

 

誰かの特別になりたい。その「誰か」に見境が無かったあのときは若かった。あのとき、なんて昔のことみたいに語っていいんだろうか。自分はきっと何も変われない。

何かに不満を持ってしまう、そういう人間的な弱さを受け入れて、でも笑って生きていくという種類の強さが欲しい。聖人になることなんかよりも。