自立とは正反対のようでいて、強い生き方。
NHKで録画した『アーヤと魔女』を観た。
ベラ・ヤーガとマンドレークの家に、アーヤは新しい「助手」として連れてこられる。自分の思い通りにならないと気が済まない勝気なアーヤは、家族の歪さにユーモアをもって真っ向から立ち向かい、適応し、拗れていた関係性をアーヤの力でほどいていく。
物語に触れたとき、「ああ、この子の行く末は大丈夫か?」と思ってしまったのだった。私の思想には機能不全家族の概念が強く根を張っている。この疑似家族でアーヤに刻み込まれた関係性の在り方は、後に社会に出たときに、大きな摩擦として立ち現れるはずだ。
そのときアーヤは深い闇に落とされる、という不安を抱いたのだった。
しかし、この考えは宮崎駿によって風穴を開けられることとなる。
宮崎駿監督が『アーヤと魔女』を語る、そして、今足りないものとは… Hayao Miyazaki(2020.12.29)
かの巨匠は息子の監督するアーヤと魔女を評価し、語った、「隙間をこじ開けていく力が、一番いま足りないのではないか」。
気がついた。
自立するということは、なんとなく、「自分がでこぼこのない、どこに置いてもなんとなくフィットする存在になる」ということだと思っていたのだ。例えば無印の家具みたいに。シンプルでスタイリッシュで、目にも優しく、何にでも合う。だから人気。
アーヤの在り方はそれとは違い、「ここにあるでこぼこを生かして取り入れて、自分の最も好きな形にしていく」ものである。
彼女は、環境によって形を変えられてしまう弱い存在ではない。むしろ、環境を変えていける、主体的な人間だった。
子どもらしい感性で自分の居場所をこじあけ、人の機嫌を手玉に取り、心地よく過ごしていく術を持っている。
どこにいても人目に触れてしまうような社会だからか、どこか無難であろうとしてしまいそうになる自分がいる。でも、アーヤの、どこにいてもこじあけていく生き方を取り入れていきたくなった。先天的なものが大きそうだけど。
アーヤは適応的か非適応的か、どちらの読み方も平等に可能であると思っている。
この物語の行く末は、きっとアーヤの親友との関係性の変化によって大きく変わっていくはずなのだが、残念ながらこの作品は原作者の遺作となってしまっている。原作ではもっと先があるのではないか?と本を読んでみたが、結末はアニメと同じだった。
想像の余地があるのは面白いが、創作もできない一介のファンである自分にとっては先が読めないのは残念である。
昨今は映画のプロモーションにも力が入っていて、ときどき宣伝も目に触れるようになってきた。絶対観に行きたい。できれば同じ考えを持ちそうな心理学の先輩と。