この1年ぽっちで、身の回りの環境が、ずいぶん変わった。
新しい人と出会って、心を開くというのは、それほど当人にとってインパクトのあることなのだ。
学生時代に比べたら、定職に就いて平日は忙しくなったし、プライベートの時間も恋人と過ごしたりして、じっくり自分の考えや言葉に向き合う機会も激減してしまった。
そうやって順調に幸せな分、何かを痩せ細らせているような気もしてならない。
(といっても、今はそういう期間なのだと思っているから、後悔は何もないのだけど)
新しく恋人と住む家を借りた際、大家さんがずいぶん歓迎してくれた。
そこで、元企業戦士である旦那さんと仕事の話をしていたのだが、あなたの会社はこうやったら成長する、こうやっていけばいいと畳みかけられ、私はあいまいな相槌しか打てなかった。
事業に異議を見いだせない。楽しくもない。そんな悩みに打ちのめされていた頃だった。
かつて昭和の時代に活躍した人との間にある、スケールと価値観の違いにくらくらした。きっと成長すること自体にやりがいと意義を持っていたのだろう。
規模は大きくないにしろ、会社という組織に属してみて、ベンチャーが自分に合っていないと思うようになった。
かつてはキャリアや仕事について真面目に話し合える人と一緒にいたい、という動機で入った誠実な人が多い会社。それは間違っていなかったのだが、私自身があまりにも事業への思い入れがなくて、何も語れない。
成長すること、上に行くこと、去年よりも今年を良くすること。
成長が当たり前なことが本当につらい。
資本主義社会の株式会社においてフィットしないのは当たり前だけど、
自分の思想の覚書として、成長できなかったら終わり、そんな世の中が一番間違っていると思う。美しさより、生活の利便性より、なによりも。
上司のひとりも言っていたけど、仕事はゲームなのだ。どうしたら目の前の課題を解決できるか。より効率的にリターンの多い結果を生むほうが得点の上がるゲーム。
でも、つまんないゲームを面白くする才能は自分にはないのかもしれない。
仮につまらないゲームが面白くなって、夢中になって、その先に私は何を思うのだろう。
たとえ一生懸命やったことでも、私の糧になったことなんかあまりなかった。
せっかくゲームをやるなら、私はこんなゲームをやっています!こんなところが面白いです!って言いたい。
自分の信念に飢えているのだ、昔も今も。
無事引っ越してきたあたりで、
恋人がぽつんと、「〇〇は文章で人の思いをまとめたりする仕事が合うと思うんだよな」と、地域報の助成金取得コンサルの記事を指さして言った。
なるほど、文章はもともと好きだし、
小説家ほどのセンスも熱意もない、編集者は忙しいし意義を感じないからやりたくない。これらの仕事は、仕事を作るのも自分たちなので、社会の余分要素だと思ってしまう。
でも、依頼者がいる仕事なら楽しいかもしれない。
私は今まで、伴走しているときが一番生きている心地がした。知り合いの仕事の手伝いをしていたときも、責任者の補助として行灯を作ったときも。
何かを伝えたい、変えたいという意志は自分にはないけれど、この人と社会をつなぎたい、なら、一生懸命になれるかもしれない。
今はまだ、何をすればいいのかわかっていないけれど、
仕事を辞めたい、から、次はどんなことをすればよさそうか、という思考に切り替われた。
自分のことをよく見てくれている恋人には、本当に感謝したい。
どんな人が聞いても文句のつけようがない仕事には、就けないし、就きたくない、そうプライドの高い自分は言っているのに、優等生の自分は、誰にも文句をつけられたくないと言っている。
新しい自分は、絶対に前者を選びたい。自分の魂を満足させられるのは、自分だけだから、自分の意志のもと判断する賢さがほしい。