知り合ってから約10年。ずっと私の心をかき乱す友人Aがいる。
Aは、文章を書く人だ。知り合った当時からAには文章で人の心を動かす能力があった。Aは卒業式で答辞だかを読んでいて、いたく感動した私は、答辞全文を厚紙に印刷して、しばらく部屋に飾っていた。
卒業後も文章書きを続けているようで、ときどき、SNSで「書きました」というメッセージとともに、エッセイのURLが貼られていることがあった。社会人になってからは、ライター仕事もちょこちょこ請け負っているようだった。
最近は特に、精力的にエッセイを投稿している。まるで覚悟を決めたみたいに。
そんなAの躍進を見て、暗い感情がぐるぐると止まらないのである。
文章での表現は、私がやりたかったことだった。
抑圧していたことを文章によって解放し、救われること。人に見てもらうこと。今度は人を喜ばせたり、救ったりすること。
文章で、身近な人に私のことを認めてほしかった。褒めてほしかった。一目置かれたかった。
そもそも私が文章を書く原動力は、整理しきれない感情や、説明するほどでもない感動、どうにも一人では抱えきれないことをネットに打ち明けるためだった。
夫ができたことで、感情の処理の仕方がまるで変わった。心が動いたときは、まずは夫に打ち明けた。
前までは、表現することで救われようとしたけれど、シェアすることで思いを昇華できるようになった。そうなってしまった。
「シェアする」は、居場所を求めていたころの私の理想だった。だから、今の私は、当時の私から見れば、成長したとも言える。
理想に近づけたはずなのに、Aを見ていると、当時の焦燥感がゾンビのようによみがえってくる。
居場所を探していた遠い自分が泣き叫ぶのだ。うらやましくてたまらない、と。
Aがすごいのは、まずは圧倒的に実力があること。そして、身近な人に「そう生きていく」と発信する覚悟を決めたことだ。
私には、どう逆立ちしてもたどり着けなかった。
文章を生み出す原動力だった、承認欲求や焦燥感がなくなってしまった以上、何も変えられない。
だからこの感情は、当時の承認欲求の断末魔。いつか、どうか救われてください。
そして、今のAを応援する勇気を、私にください。
たとえAにとって、私が人間関係の断捨離の対象であっても。