語る自分が嫌いだから自己紹介が嫌い

ひたすら反省文。

 

自分のことを語るたびに後悔する。

ちょっとしたお遊びでプレゼン付きの自己紹介をしたのだが、自分から出る言葉が卑屈でしょうがなく、後悔した。前を向く後輩たちのなんと頼もしいこと、と思ったのに、私は過去すらエンタメに出来ずにいる。情けないな。

もう昔の話はやめたいし、忘れていいと思っていたのに、ふとしたときに引き戻される。

大きすぎて、長すぎて、昔の自分の病んだ行動原理を語らないことには今の私が成り立たない。

 

 

いちばん言いたかったことって、なんだったんだろう。

きっと昔だったら、自分はすごい人間なんだぞ、だから仲良くしたらいいことあるよという、人の心を解さないいじめっ子みたいな支離滅裂なことだったけど、今はちょっと違う。でも、自分をどう理解してもらえばいいのかよくわからない。どう思われるかは割とどうでもいいんだけど、こう改めて自分を定義しろと言われたとき、卑屈なことしか出てこない自分が嫌いである。どうにかしたい。

私の魅力は私でプロデュースできるようにならなきゃならないんだろうな。ならなきゃならないのかな?自分のことや感情を身近な人にうまく発信することは、大事な能力だと思うんだよな。

 

こういうことは言いたかった。

私がなぜそれなりに楽しそうに仕事できるか。私の培ったメインのコミュニケーション手段が仕事であるからだ。

それが虚しいものだとも理解しているが、もうどうしようもない。仕事で人に優しくできたらうれしいし、優しくされたら感動する(かつて仕事は大事だよと言ったあの人は、居場所、という意味合いで、己のコミュニケーション特性の自覚ありきで言ったのだ)。そんな、人によっては渋々やっているような心の触れ合いが、私の心を潤す唯一のものだった期間が長すぎた。

この情緒の砂漠の中で、近頃やっと覚え始めた、日常におけるふれあいの大切さを学び実践し反省しながら、だましだまし生きている。

自分の欠陥のひとつはここにある。遅いけど、気づけただけまだましだと思いながら、意識していきたい。ひとりぼっちは嫌だ。

 

暗いところから抜け出したあと、気持ちをわかってあげられる人の種類が増えるかと思っていた、もちろん手を差し伸べられる人も増えたけど、一緒に底にいたまま支えあえる人は減ったから、別に自分が役立てる量は変わっていない。

「私は可哀そうな人間なのだ」というふざけた自己観念を脱した世界では、各々が甘えず自分の武器を持ち、人生をやっていた。こっちのほうがよっぽど自由で喜びも多いのに、昔の自分がどこかから、私を忘れるな、と呪っているような気がする。そいつを慰めてあげる余裕が、そろそろ出てきてほしいなあと思う。

ここまで書いて、両親に似てるなあと思った、自分の過去はこう可哀そうで余裕がなかったし、それに比べて今のあなたなら大丈夫でしょうと、こう、相手を尊重しているように見えて、自分は可哀そうだと慰めてほしそうにするところが。私が心を病んだ一因はここにあったので、他の人には同じ負担を強いないように、過去にはこだわらずに生きていきたいんだよな。

そっか、だから、自分が卑屈なことを言ってしまうのが気持ち悪くてしかたないし、自分が可哀そうと思われることに強い抵抗を感じるんだな。拗らせてしまったものは仕方がないので、拗れた結び目を整理して見守っておくしかない。

 

遊ばなかった人間が大人になってから下手な遊びに引き寄せられるように、吐き出せなかった感情も結局わだかまるものだから、私はどこかで誰かに、本当に意味で病んでいた気持ちを理解してもらう必要があるんだと思う。自分じゃどうしようもできない感情は数多くある。

次に恋する相手はそういう人間な気がする。

 

昔の自分に見せたら信じてもらえないくらいに、毎日はそれなりに楽しくやってる、愛されてもいる。

でも、理想に対してあまりにも、取りこぼしたものが多い。今ある器だけでやりくりしていかなくちゃならないのがしんどい。ああーお酒が飲める体になりたいな。

 

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私は幸せになりたいし、隣にいる人も幸せにできるようになりたい。

そのために自分の機嫌や言葉は自分で整える。次の課題は言葉だな。目標は25歳。