私が鳥の世界に深く入るきっかけになった人が亡くなってしまった。まだ20代だっていうのに。
風向きが変わった/愛と転生を理解しかける
オンライン合説、飛生を経て、自分のエネルギーの使い方が変わった。
これまでは、ただ自分の焦りを鎮めるためだけに、周りの出来事を利用していたように思う。
たとえ他のことを犠牲にしてエネルギーをそこに注いでいたとしても、「これを経て自分は何かを得られるはずだ」という打算を持ち続けていた。未知や好奇心に挑戦するのは、自分の気を済ませるため。通り抜ければ自分のことが少しでもクリアになるだろうという期待。
今年大きかったこの2つの出来事は、性質が異なっていたように思う。それは「もともと持っていた無理のない自分を人に分け与えていた」という点において。
大げさに言うならば、私は周囲に対してできることを純粋に考えて行動していた。何かを得ようとは考えていなかった。ただ全体最適を考えて、自分が持っている時間知識熱量を提供したと思う。だから、エネルギーが内でくすぶっている時間が減った気がする。
今まであらゆる出来事に立ち向かうときに常に考えていた「自分のことがよりクリアになってほしい」という期待は、言い換えれば「自分が受け入れられる場所はどこなのだろうか」という問いであった。
問いの答えは、自分が元々持っているもの(例え言語化されていないにしてもだ)がより喜ばれる場所で時間を過ごせばよい、だった。
この分野ではあまり事情が分からない、という分野でエネルギー量を調整しようとしても暴走するのは当たり前だ。勝手がわからないところでは、そもそも適切かどうかさえ判断する力がないのだから。そしてその分野だけに自分を依拠させることはしんどい。
トライして失敗して、摩耗する経験は自分の幅を広げるために必要かもしれない。でも、自分の守備範囲でまわりを元気にすることも同時にやっておかないと、自分の居るところが分からなくなってしまう。そのうちとりこぼす感情や感覚が多くなって、せっかく摩耗した経験もうまく消化できなくなり、取り返しのつかないことになるんじゃないかと。
素の自分を表現しても煙たがられず、むしろ喜ばれる場所を見つけるのは、多数派に共感できないたちであるほど、困難になる。それでも人は居場所を見つけることを諦められない。人間関係だけじゃなく、仕事だったり、自然だったり、文化だったり、思想だったり。
そして、自分が元来持っているある方向への熱量は、自分ひとりで見つけられるものではなく、人や物事や環境に対峙したときに、はじめてわかるものである。エリクソンのいうアイデンティティの定義のように。
鳥を探すとき、そこにいるかどうか分からない鳥を見つけることは本当に難しいのに、一度鳥を認識すると、次もその次もと、面白いように出会えるようになる。
「あるかどうかわからない」ものを追いかけるのには才能と運が必要だけど、「確かにある」と気がついたものをもう一度探すのは、もう少し簡単であるはずだ。
2度目の4年生にもなってやっと、居場所があるという感覚を掴むことができた。いつかその居場所を手放すときがきても、一度得た居場所の感覚は無くならないと信じたい。
違うエネルギーの使い方を知ったいま、人生の風向きがなんとなく変わった気がする。あんなに難しいと感じていた身体や心の使い方を、会得していくスタートラインにやっと立てたような。悪い気分じゃないなと思える。
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遠藤周作『深い河』を友人の薦めで読んでから、少しずつ愛と転生について考えている。頭では理解できたけど、まだしっくり来ていない。
ああ、そういうことだったのかと、突然真理めいたものが納得できる瞬間がある。そういうタイプの納得は長くは続かず、1分くらいで夢のように忘れてしまうのだけど。
さっきその瞬間が訪れて、少し掴みかけたということは、私が生きているうちにこの概念を心からわかるときが来るのかもしれない。
そう、自分が生きているうちには、ということをさっき考えたんだった。
自分が生きているうちに、他の人にしてあげたいことはすべてしておきたい、と思い当たった。
例えば愛している人に愛情を伝え続けるだとか、他の人には任せたくない済ませておきたい仕事にあたるとか、一緒にしたらきっと楽しめることを楽しむ機会を作るとか、今できなくても将来必ず与えたいことを学ぶとか。
死んだらもう、人を喜ばせることもできないし、数少ない理解者を見つけて分かり合うことも、あるいは何かに表現してとどめておくことも、できなくなるのだ。
こういう欲求は女性的だなと思うけれど、素直にしたいと思えることを突き詰めるとここに行き当たる。
自分のうちにある男性的な夢や目標は何か、見つからない自分に劣等感を抱くこともあったけれど、わたしが満足して生を全うするために、夢は必ずしも必要ではないと気がついた。もしいつか夢を見つけたら生活における価値の判断基準ががらっと変わるだけであり、生の価値が変わるわけではない。まだちょっと夢への未練はあるけれど、ちかぢかその考え方を身につけそうなのである。
生きているうちにしておきたいことを、自分をとりまく周囲の価値観に左右されず素直に考えられるようになったのも、「風向きが変わった」からであり、自分を表現する場所に身を置いているからである。
ひとまず、そのように生きていくことに、今の私は異論がない。
プリンプリン
プリン食べた。半年くらい恋焦がれてた。
来年大学院に進学する友人の話を聞いて、その人の卒業までは私も猶予期間で良いのではとか考える。
企業に勤めあげかけの大人たちの話を聞いて、こんなに考え方が違うのだと思った。お互いに違いを認識し許容しようとしつつも、理解し合えない何か。
わたし、頭と意地が悪いんだろうな。世の中の貨幣の流れも知らず、立ち振る舞い方も知らず。
知ろうとせず。
どうやったらルールを上手く使って下の世代に良い世の中を残してあげられるか、その勉強を怠る。
ひとつ答えが見えつつある。あとは言い訳をして逃げない、1番難しいけどそれだけ。
全部終わったらお祝いにひとりでプリン食べたい。もう一つ、食べに行きたいお店がある。
甲州夜曲がわたしにも
WATER WATER CAMEL - 甲州夜曲 - Stay Home Sessions
奇跡みたいな風が吹いて
膝を砕いていったのさ
僕はしりもちをついたまま
東京行の電車は行ってしまった
行ってしまいそうなのだ、、
そういえば達成をしていた本作り
今年、「旅日記のZINEを作る」という目標を立てていた。
プロジェクトはまったくもって進んでいないのだけど、これの目的としては
・あの旅の意義を完全に落とし込む
・レイアウトデザインをやってみる
という2つだった。
前者は、日常の中で実は結構できてしまっている。経験が劇的に人生を変えたわけではないけど、意志を通すための自信をつけるきっかけくらいにはなった。十分なくらいにひとりでふらつく欲を満たせた。
後者は、作ることによってしか達成されないものだったが、別に冊子をつくる機会をいただいた。貸していただいた本で得た付け焼き刃の知識でIndesignを使い、16ページ分をレイアウトした。
まだ紙を決めていないけど、来週完成予定だ。ありがたいことに、展示もさせていただく。
本を出すことが夢だったので、例え薄くても遊びの延長であっても、とてもうれしい。製本まで気を抜かずいきましょう。
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最近、SNSのアプリを軒並み消去したのだが、とても良い。
ミヒャエル・エンデの『モモ』を最近読み直して、時間について考えている。SNSで他人の日常を覗くことには際限がなさすぎることに気がつけた。あとはこの前の金曜ロードショーのコクリコ坂からを観ていて、この時代くらいの時間の使い方をしたいなーと思った。
うつくしきひかりと、まだ世代を渡さないこと
うつくしきひかり、というバンドが好きだ。
前にも『ともだちを待っている』について書いたことがある。
色々なところで音楽をやっている人たちが集まってできたバンド。
アルバムひとつしか出していない。
ともだちを待っているしか知らなかったのですが、この度(違法で)アルバム全曲がYoutubeに上がっているのを見つけた。
パソコン作業BGM代わりに聞いてみた。大好きなともだちを待っているだけではない、アルバムを通して音色も歌詞も美しいのだった。
途中で、ヒヨドリの声、子どもの声が偶然入り込んでいる。その音を聞いて、穏やかな日常について思いを馳せた。
最近よく子どもと遊ぶ中で思う、親心にも似た感覚。甥や姪が、したたかに元気に育ってほしいという願い。
なんだか、下の世代に力を注ぐ感覚が分かってきた気がする。
ただ、それじゃいけないって思ってる。確かに愛情は美しいことかもしれないけれど、自分の仕事も終わっていないのに、勝手に下の世代へ力を注いではいけない気がして。
まだ社会を動かしはじめてすらいないから、まだまだ。
とりあえずCDを買おう。
器はできてしまった
この前、あ〜〜〜なるほどなと思ったことがありまして、こちらのツイートなのですが。
青年期までは「キャパシティが大きい=才能がある」ことに評価がつきますが、オトナになると「キャパシティの使いこなしかた」に評価がつく。キャパシティの多寡ではなく、自分の器の大きさを把握してうまく使えているかがオトナの才能。小さくてもヘンなカタチでもちゃんと機能してれば良いんだよ…!
— 小倉ヒラク | Hiraku Ogura (@o_hiraku) 2020年8月19日
「自分はもう成長しない」「できることも増えない」ということを前提とすることで「では限られたキャパをどう使い倒すか?」というオトナ期の自己鍛錬に移行できる。一度自分の限界を受け入れないと「自分を使いこなす」ことができない。つまりオトナとして振る舞えず、くすぶり続ける青年になる。
— 小倉ヒラク | Hiraku Ogura (@o_hiraku) 2020年8月19日
これを見ても「いや、まだまだ」と考える時期を、既に過ぎてしまったようです。喜ばしいのか悲しいのか。
弱さを受容しなさいと言われることがあるが、弱さは弱さなのだから少しずつでも努力して強くしていくべき、少なくとも自分は。
とか思ってたけども、どうやらもうその必要もないみたい。
恥ずかしいところや汚いところも、よい側面とうまくやりくりしていくことを許せそうである。
このことできっと失われるものもある。感覚を忘れたり、不理解になってしまったり。でも膨大なもので溢れ返る世の中で、徐々に自分の選択肢を自分の手で狭めていくのは、悪いことではないとおもう。
今の役割をすっかり終えてしまっても、ただ役割が変わるだけなのだと。
自分の嫌だったところ、この文章が表現してるような「青くさい」「面白くない」も、もうしょうがないなと思う。今更カラッとした人間には変われない。でもそれでいい。青くささを嫌わない人や、それでも一緒に笑える人といればいい。
この容れ物だからこそできることを、その場その場で探していこう。胸の中の釘がひとつ抜けた気分だ。