2年前衝動的に日食なつこのライブに行っておいてよかった

休学を決めて広島での一人暮らしをする直前、慌ただしい予定にどうにか折り合いをつけて、日食なつこのライブを観に行った。

 

あの頃、自分も何かを見つけなきゃと焦っていて、優等生的に生きてきた自分を終わらせよう、本当の意味で生きるのだと覚悟を決めようとしていた。

日食なつこはモラトリアムにぶっ刺さる。特に希望を見つけようとしているときに。その時間の始まる象徴の意味で、歌とピアノを聞きにいこうと思ったのだ。

 

昔の気持ちに想いを馳せて胸を焦がすことなんてなかったのだが、最近になってよく感じるようになった。

よく思春期の頃がいちばん楽しかったというのを聞くけれど、自分の思春期は明るいものではなかった。その代わりとして、ようやっと希望を見始めた時期、つまり青年期が私の原点となっている。

その頃に胸に差し迫った歌に出会えたこと。当時は己の感性ながら青臭いな〜と考えていたけれど、本当の感覚には嘘はつけない。カッコつけずに正直になってくれてありがとう、当時の自分よ。

 

 

自分が社会の中で生きる道を決めることよりも、やりたいことが自分にはあった。あってしまった。

夢が欲しかった自分はもう遠く、代わりに今は、人を大事にできる自分になりたい、その自分を好きになりたいという一番の目標ができた。そのために、精神的にも経済的にも自分で立っていられる自分でいること。

 

ただ、自分の生きる道はなんだろうという問いは、持ち続けていたいと思う。いつまでも見つからないだろうが、成し遂げようとする人と比べて勝手に惨めにならないこと、ある人にはもうあるもの、それが道なのである。逆に言えば私が闇雲に流されるまま経験してきたいろいろが、いつの間にか私の前に道を作るかもしれない。

優先順位。私は隣にきてくれる人たちといちばん幸せをつくりたい。

 

 

これは消費を楽しむ生き方なのかもしれない。私がなりたくなかった。ほんとうは生産を楽しめる人間がよかった。

でも肯定させてくれ。何も志さないいま、ときどき友達や好きな人たちと楽しく過ごすことができることに気がついた今、一番生きた心地がする。仕事や課題を通してしか人とコミュニケーションをとれなかった自分が、初めて知った安らかな時間。失いたくないし、忘れたくないこと。

 

目標を持つ人を羨望の目で見るようなことはおおかたしなくなってきた、

でも、時々日食なつこを聴くと、彼女は私に問いかける。希望いっぱいだった自分が問いかける。お前はそのまま、道すら自分で決めずに死んでいくのかと。

何も返す言葉はない、ごめんなさいと思うだけ。それともいつか、今がいちばんだよと言える日が来るんだろうか。

 

そういう差し迫った思いを思い出すのは、あのときのライブを観ていた自分の感覚や感情を、空間と一緒に覚えているから。

忘れることのできない記憶になってしまった。どうやら問いからはいつまでも逃れられないらしい。

『アーヤと魔女』アーヤの生き方を忘れてた

自立とは正反対のようでいて、強い生き方。

 

NHKで録画した『アーヤと魔女』を観た。

 

ベラ・ヤーガとマンドレークの家に、アーヤは新しい「助手」として連れてこられる。自分の思い通りにならないと気が済まない勝気なアーヤは、家族の歪さにユーモアをもって真っ向から立ち向かい、適応し、拗れていた関係性をアーヤの力でほどいていく。

物語に触れたとき、「ああ、この子の行く末は大丈夫か?」と思ってしまったのだった。私の思想には機能不全家族の概念が強く根を張っている。この疑似家族でアーヤに刻み込まれた関係性の在り方は、後に社会に出たときに、大きな摩擦として立ち現れるはずだ。

そのときアーヤは深い闇に落とされる、という不安を抱いたのだった。

 

 

 

しかし、この考えは宮崎駿によって風穴を開けられることとなる。

 


宮崎駿監督が『アーヤと魔女』を語る、そして、今足りないものとは… Hayao Miyazaki(2020.12.29)

 

かの巨匠は息子の監督するアーヤと魔女を評価し、語った、「隙間をこじ開けていく力が、一番いま足りないのではないか」。

 

 

 

気がついた。

自立するということは、なんとなく、「自分がでこぼこのない、どこに置いてもなんとなくフィットする存在になる」ということだと思っていたのだ。例えば無印の家具みたいに。シンプルでスタイリッシュで、目にも優しく、何にでも合う。だから人気。

 

アーヤの在り方はそれとは違い、「ここにあるでこぼこを生かして取り入れて、自分の最も好きな形にしていく」ものである。

彼女は、環境によって形を変えられてしまう弱い存在ではない。むしろ、環境を変えていける、主体的な人間だった。

子どもらしい感性で自分の居場所をこじあけ、人の機嫌を手玉に取り、心地よく過ごしていく術を持っている。

 

どこにいても人目に触れてしまうような社会だからか、どこか無難であろうとしてしまいそうになる自分がいる。でも、アーヤの、どこにいてもこじあけていく生き方を取り入れていきたくなった。先天的なものが大きそうだけど。

 

 

 

アーヤは適応的か非適応的か、どちらの読み方も平等に可能であると思っている。

この物語の行く末は、きっとアーヤの親友との関係性の変化によって大きく変わっていくはずなのだが、残念ながらこの作品は原作者の遺作となってしまっている。原作ではもっと先があるのではないか?と本を読んでみたが、結末はアニメと同じだった。

想像の余地があるのは面白いが、創作もできない一介のファンである自分にとっては先が読めないのは残念である。

 

 

昨今は映画のプロモーションにも力が入っていて、ときどき宣伝も目に触れるようになってきた。絶対観に行きたい。できれば同じ考えを持ちそうな心理学の先輩と。

語る自分が嫌いだから自己紹介が嫌い

ひたすら反省文。

 

自分のことを語るたびに後悔する。

ちょっとしたお遊びでプレゼン付きの自己紹介をしたのだが、自分から出る言葉が卑屈でしょうがなく、後悔した。前を向く後輩たちのなんと頼もしいこと、と思ったのに、私は過去すらエンタメに出来ずにいる。情けないな。

もう昔の話はやめたいし、忘れていいと思っていたのに、ふとしたときに引き戻される。

大きすぎて、長すぎて、昔の自分の病んだ行動原理を語らないことには今の私が成り立たない。

 

 

いちばん言いたかったことって、なんだったんだろう。

きっと昔だったら、自分はすごい人間なんだぞ、だから仲良くしたらいいことあるよという、人の心を解さないいじめっ子みたいな支離滅裂なことだったけど、今はちょっと違う。でも、自分をどう理解してもらえばいいのかよくわからない。どう思われるかは割とどうでもいいんだけど、こう改めて自分を定義しろと言われたとき、卑屈なことしか出てこない自分が嫌いである。どうにかしたい。

私の魅力は私でプロデュースできるようにならなきゃならないんだろうな。ならなきゃならないのかな?自分のことや感情を身近な人にうまく発信することは、大事な能力だと思うんだよな。

 

こういうことは言いたかった。

私がなぜそれなりに楽しそうに仕事できるか。私の培ったメインのコミュニケーション手段が仕事であるからだ。

それが虚しいものだとも理解しているが、もうどうしようもない。仕事で人に優しくできたらうれしいし、優しくされたら感動する(かつて仕事は大事だよと言ったあの人は、居場所、という意味合いで、己のコミュニケーション特性の自覚ありきで言ったのだ)。そんな、人によっては渋々やっているような心の触れ合いが、私の心を潤す唯一のものだった期間が長すぎた。

この情緒の砂漠の中で、近頃やっと覚え始めた、日常におけるふれあいの大切さを学び実践し反省しながら、だましだまし生きている。

自分の欠陥のひとつはここにある。遅いけど、気づけただけまだましだと思いながら、意識していきたい。ひとりぼっちは嫌だ。

 

暗いところから抜け出したあと、気持ちをわかってあげられる人の種類が増えるかと思っていた、もちろん手を差し伸べられる人も増えたけど、一緒に底にいたまま支えあえる人は減ったから、別に自分が役立てる量は変わっていない。

「私は可哀そうな人間なのだ」というふざけた自己観念を脱した世界では、各々が甘えず自分の武器を持ち、人生をやっていた。こっちのほうがよっぽど自由で喜びも多いのに、昔の自分がどこかから、私を忘れるな、と呪っているような気がする。そいつを慰めてあげる余裕が、そろそろ出てきてほしいなあと思う。

ここまで書いて、両親に似てるなあと思った、自分の過去はこう可哀そうで余裕がなかったし、それに比べて今のあなたなら大丈夫でしょうと、こう、相手を尊重しているように見えて、自分は可哀そうだと慰めてほしそうにするところが。私が心を病んだ一因はここにあったので、他の人には同じ負担を強いないように、過去にはこだわらずに生きていきたいんだよな。

そっか、だから、自分が卑屈なことを言ってしまうのが気持ち悪くてしかたないし、自分が可哀そうと思われることに強い抵抗を感じるんだな。拗らせてしまったものは仕方がないので、拗れた結び目を整理して見守っておくしかない。

 

遊ばなかった人間が大人になってから下手な遊びに引き寄せられるように、吐き出せなかった感情も結局わだかまるものだから、私はどこかで誰かに、本当に意味で病んでいた気持ちを理解してもらう必要があるんだと思う。自分じゃどうしようもできない感情は数多くある。

次に恋する相手はそういう人間な気がする。

 

昔の自分に見せたら信じてもらえないくらいに、毎日はそれなりに楽しくやってる、愛されてもいる。

でも、理想に対してあまりにも、取りこぼしたものが多い。今ある器だけでやりくりしていかなくちゃならないのがしんどい。ああーお酒が飲める体になりたいな。

 

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私は幸せになりたいし、隣にいる人も幸せにできるようになりたい。

そのために自分の機嫌や言葉は自分で整える。次の課題は言葉だな。目標は25歳。

おみくじ2021

年が明けました。

去年の目標5ファイヤーは無事に達成しました。今年は何ファイヤーにしようかな。

 

おみくじでも写経しようかと。大吉でした。

 

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思う事 思うがまゝに なしとげて 思う事なき 家の内哉

目上の人の思いがけない引立(ひきたて)で 心のまゝに調い家内仲良く暮らされます

色を慎み身を正しく目上の人を敬って目下の人を慈しめば愈々(いよいよ)運開きます

 

願事 思う様に運ぶ家屋敷田地売買共に吉

待人 早く来る

失物 静かに落付いて探せ

旅行 商売ならよし

商売 上吉さわぐと損

学問 安心して勉学せよ

相場 待て 動かせば損

争事 勝つ 心落付けよ

恋愛 誠意を尽くして接せよ

転居 さしつかえなし

出産 さわりなし

病気 すべて信神でなおる

縁談 他人の言うまゝにしてよし必ず叶う

 

曇るかがみに姿は見えぬ、磨き上げようそのこゝろ

曇った鏡に人の姿は映らない。曇った心、汚れた心に神様の御陰は宿らない。神様を離れた心ほど暗く寂しいものはない。此の心の曇り、心の汚れが、凡ての禍の源となる。心に塵を溜めぬように、祓へ給ひ清め給への神語を唱え、神様の御陰を心に宿せば、身体健やかに心穏(おだ)しく、家内安らけく過ごされる。

晴れ着とひどい気持ち

きらきらした目で「卒業式、袴は着るの?」と訊かれて、友達を遠く感じた。

 

晴れ着を着る自分を想像すると死にたくなる。

自分の感情にはだいたい理由をつけているのだが、これの理由だけさっぱりわからない。

 

成人式で振袖を着せてもらったときの絶望感、ひどい気持ちを思い出して、この前、袴を着るのも断った。

たぶん一生ウエディングドレスも着れない。

お金がかからないのはよいことだし、このくらいの悲しみなら持っておいても今は支障がないので、このままでいいかと思う。

何に意固地になっているんだろうな。

 

友達には着ないよとだけ伝えた。一生分かり合えない。伝わらない感情を伝えようとする寒さと徒労は他にない。例えば部活で怪我をすることが嬉しいと思っていた気持ちなんて、絶対に伝わらない。悲しい。いつだか反発を抱いていたのは、陽の世界を正しいと盲信している人たちが恨めしかったからだろうな。

必要がない齟齬は伝えなくていい、だいたいの臆病な大人が知っていること。だからこそ通じ合えることが尊いとも。